向こう隣のラブキッズ


第9話 波乱の後にはいつもハッピー!


梅雨の晴れ間が広がった7月のある日。しおりが学校から帰ると、台所で母が手を押さえていた。手元には切りかけたカボチャが転がっている。
「お母さん、どうしたの? 指から血が出てるよ」
「大丈夫。ちょっと手がすべっちゃって……そこの絆創膏取ってくれる?」
しおりは急いでその箱を開けると母の指に貼ってやった。

「これじゃあ、お料理するの大変でしょ? 今夜はわたしがお夕食作ってあげる」
しおりが言った。
「あら、大丈夫よ、これくらい……」
母はそう言うと包丁を握ったが、指が痛むのか顔をしかめた。
「ほら、貸してってば! 見て! こんなのわたしにだって簡単に出来るんだから……」
しおりがえいっとばかりに包丁を振り下ろすと、ビュンッと周囲に風が吹いて、カボチャは真っ二つになった。
「まあ、すごい!」
母が感心した。しおりは得意そうだったが、まな板まで真っ二つになっている。

「あらあら、力を込めればいいってもんじゃないのよ、お料理は……」
苦笑する母にしおりは言った。
「わかってる。料理は心でするものだって……。わたしだって姫乃お兄ちゃんに愛情たっぷりのお弁当作ってあげたいんだもん」
「ふふ。そういう事だったのね」
「だって、愛川のおばちゃん、ここのとこ具合がよくないんだって……。それで、お兄ちゃんずっと、コンビニでお弁当買ってるらしいの」
しおりが神妙な顔をして言う。
「まあ、それなら、お母さん、作ってあげてもいいわよ。どうせ、お父さんのお弁当も作るんだもの。姫乃くんにそう言っておいて」
「ほんと? じゃあ、早速言って来るね」
しおりは階段を駆け上がろうとしたが、2段目で足を止めて振り向いた。

「でも、どうせなら、わたしが自分で作りたかったな」
「じゃあ、一緒にやりましょう。最初は簡単なところから始めたらいいのよ。誰だって最初から出来るもんじゃないし、なれれば、しおりだってだんだん上手くなるわよ」
「ほんと?」
母がにっこりとうなずいたので、しおりはうれしくなった。


その頃、歩はさくらの家にいた。
「すごいわ! 歩くん、ビッグチャンスが舞い込んだのよ」
さくらは上等なクッキーと紅茶を歩の前に並べて言った。
「ビッグチャンス?」
歩はクッキーの1枚を上品に指でつまんで首を傾げた。今はYUMIではなかったが、すっかり仕草が板について来たのだ。

「秋からの連ドラに出てみないかって誘われてるの。結構出番も多いし、重要な役よ」
「えーっ? おれ、そんなの出来ないよ。演技なんて……」
「大丈夫よ。こないだチョイ役で出たドラマの監督さんが気に入ってくれたの。ナチュラルな演技が光ってたって……」
さくらは熱心に言った。
(ナチュラルって……)
歩の内面は複雑だったが、さくらが喜んでくれている。そんな彼女の笑顔に夏の陽光が当たってきらめく。
「うーん。じゃあ、やってみようかな」
つい、そう返事をしてしまった。

「ほんとに? わあ! よかった!」
(さくらお姉ちゃん、すっごいうれしそう。おれも何だかうれしくなっちゃうな)
歩は幸せだった。
「じゃあ早速、OKだって連絡しとくね。あ、クッキーお代わりあるからね。自由に食べてて」
さくらが席を外す。歩はつまんだクッキーを口に入れた。ほっぺがとろけそうなほどおいしかった。
「すべては順調に進んでいる。そう思ってていいんだよね」


それから30分ほどして、歩がさくらの家を出ると、スーツ姿の3人組がうろついていた。
「おい、おまえら、またさくらお姉ちゃんに迷惑行為しようってんじゃないだろうな?」
歩が睨む。
「何言ってんだよ。こう見えてもおれ達、立派な営業マンさ。世のため人のためになる美容クリームをご婦人方に紹介してんだかんな」
リーダーの本村が説明する。
「そうさ。このクリームを塗れば、どんな肌だってすべすべきらきらになれるって評判なんだぜ」
宮下も口を添える。
「効果については、あくまでも個人の感想であり、感じ方には違いがありますけどね」
木根川があわてて口をそえる。

「どうせ、サギだろ? そんな得体の知れない物、使いたいなんて奴、この辺にはいないと思うよ」
歩が言った。
「そうかなあ」
本村が言う。
「何言ってんですか? リーダー。そんなんじゃ売れませんぜ」
宮下が周囲を見て言う。
「そう言えば、歩くんもお肌すべすべだよね。ちょっと触らせてくんない?」
「ふざけんな!」
木根川の言葉に歩は怒りのパンチを叩き込んだ。その勢いで突風のような風が道路を吹き抜け、3人を2軒先まで吹き飛ばした。
「ふんだ。そんなうさんくさい物、買う奴いねえよ!」
歩はそう言うとさっさと自分の家に入って行った。

3人が吹き飛ばされて倒れていると、後ろから声がした。
「ちょっと、あんた達、その美容クリームってほんとに効果あんの?」
振り返ると、庭先で植木の手入れをしていた、白神の奥さんが顔をのぞかせていた。
「ええ。そりゃあもう、どんなに傷んだ肌でもピッカピカのツルツルですよ。ま、奥様のような美人には必要ない物かもしれませんけどね」
調子の良い宮下が言い寄る。
「まあ。美人だなんて、ほほほ。それじゃ、そのクリーム一つもらおうかしら?」
「ほ、ほんとですか?」
本村が言い、
「や、やっと売れた」
宮下は前腕を目頭に当て、
「苦節3ヶ月、この日が来るのを待ってました」
木根川もうるんだ目で白神を見つめた。
「ありがとうございまーす!」
3人は揃って頭を下げた。


その頃、しおりは子ども部屋の窓辺から、姫乃に明日からお弁当の心配をしなくてもいいのだと伝えた。
「ほんと? よかった。僕、コンビニでいろんなお弁当が並んでいるとなかなか決められなくて、つい遅刻しそうになっちゃうんだ」
そう言って姫乃は微笑したが、どことなく元気がなさそうだった。
「お兄ちゃん、もしかして疲れてるんじゃない?」
「うん。そうだね。実は。このところ、小説の原稿を書くのが忙しくてあまり寝ていないんだ」
「だめだよ。睡眠はしっかりとらなきゃ……お肌の大敵なんだから……」
「でも、編集の吉原さんが締め切り守らなきゃだめだって……。やっぱり、プロになるって厳しいんだね」
しみじみと言う。

「でも……。お兄ちゃんはがんばってるよ。本が出る度、この辺じゃすぐに売り切れちゃうんだから……」
「ありがとう、しおりちゃん。でも、駄目なんだ。もう3日も眠ってないけど、プロなら、もっとがんばらないと……。もっと……」
その時、姫乃の身体がぐらりと揺れて窓の敷居にもたれ掛かった。その頭上で笹の葉が揺れる。
「お兄ちゃん! 大丈夫? しっかりして! お兄ちゃん!」
「ああ、せめて満点屋のおまんじゅうがあれば……少しは元気が出るんだけ…ど……」
そう言うと姫乃は、窓の敷居にもたれて目を閉じた。
「お兄ちゃん、そんなにも満点屋のおまんじゅうが食べたいの?」
姫乃が目を閉じたままこくりとうなずく。
「わかった。お兄ちゃん、今しおりが猛ダッシュで行って来るから! 待っててね!」
そう言うと、しおりは本当にものすごい勢いで階段を駆け下りた。風がひゅうっと音を立て、家がみしみしと揺れた。


そして玄関のドアを開けると姫乃の同級生3人組と出くわした。
「ちょっと、あんたら邪魔よ。そこどいて!」
「それより、姫乃は? これにサインしてもらいたいんだけど……」
岩田が色紙の束を突き出す。
「もう、学校でもすごい人気でさあ」
鴨井も言う。
「しおりちゃんからお願いしてくれない?」
吉永が色目を使う。
「だめよ! お兄ちゃんは今、とっても忙しいの! 余計な仕事する体力なんかないんだから……」
「余計なって……」
「これだってファンサービスの一つだぜ」
岩田と鴨井が文句を言う。
「だめったらだめ! お兄ちゃんは大変なの。何ならわたしが代わりに書いてやってもいいよ」

「ほんと?じゃあ、これに吉永LOVEってお願い!」
妹好きの吉永が一番上の色紙を取って言う。
「バーカ! しおりのサインもらってどうすんだよ」
岩田が睨む。
「だってさあ」
吉永がしおりを見つめる。
「あ! それどころじゃないんだった。わたしも今は忙しいの! サインなんてあとあと!」
そう言うとしおりは3人を蹴散らして満点屋へ駆けて行った。


しおりが帰って来て2階の窓を開けた時、姫乃はまだ、そのままの体勢でいた。
「お兄ちゃん! ほら、満点屋のおまんじゅうだよ! しおりのおこづかいじゃ1個しか買えなかったけど……確かに満点屋のおまんじゅうだよ、食べて!」
しおりが袋から出したおまんじゅうを渡す。
「あ、ありがとう。これで何とか生き伸びられそう」
姫乃は微笑するとおまんじゅうを半分にして片方をしおりに差し出す。
「わたしはいいんだよ。お兄ちゃんが食べて」
しおりが言った。
「ううん。二人で食べたら、力も2倍になるんだ。お願い。しおりちゃんもいっしょに食べて」
姫乃に言われ、しおりもうんとうなずいて受け取った。

「じゃあ、お兄ちゃんもいっしょにね」
「うん」
二人は笑ってぱくりとおまんじゅうを口に入れた。
「おいしい!」
同時にそう言った。
「ありがとう。これでまた 元気になれたよ」
姫乃が言う。
「でも、絶対に無理しちゃだめだよ」
しおりが念を押す。
「うん。明日も学校あるしね」
そうして二人は甘く幸せな時を過ごした。


次の日。学校から帰って来た歩を、さくらが家に招いた。用意されていたのは紅茶とチョコレートケーキ。それは、これまで食べたどんなケーキよりもおいしかった。さくらは紅茶のお代わりを注ぎながら言った。
「実は今日、ドラマの台本もらったんだけど、ねえ、歩くん、ピアノはどれくらい弾ける?」
「ピアノ? 鍵盤ハーモニカなら学校で習ったけど……」
「うーん、そうか。じゃあ、どうにかしないとね」
さくらが困ったように言うので、歩は心配になって訊いた。
「どうにかって?」

「実はね、ドラマの女の子、ピアノを弾くシーンがあるのよ」
「えーっ? おれ、出来ないよ、そんなの……」
だからプロフィールにピアノが弾けるなんて書かなければよかったのにと歩は思ったが、さくらにそんな事が言えるはずもなく、黙って下を向いた。
「でも、大丈夫よ。プロの役者さんって、役に成り切るためにやった事もない楽器だってちゃんと弾けるようになれるっていうし……」
さくらが励ますように歩の肩を叩く。
「そんな事言っても……。おれ、プロじゃないし……」
「大丈夫。歩くんならきっと出来る。だって、もう立派にモデルとしてのお仕事してるんだもの。ね?」
さくらの唇を寄せて囁く。甘い香水の匂いがどこかくすぐったい気がして歩はもじもじした。

「そうだ。お隣のハンス先生に頼んでみようか。ほら、こないだの学生コンクールで生徒さんが優勝したって、ネットでも話題になってたのよ。こんな身近にすごいピアノの先生がいるなんてラッキーじゃない? きっと上手く行くわ。あ、でも、気を付けて。正体がバレないようにね」
「うん」
歩はそう返事をしたものの、自信がなかった。
(YUMIとしてピアノのレッスンを受ける。しかも相手が顔見知りのハンスだなんて……。どうしよう)

ハンスは昨年の秋に来日し、今は作家の眉村家に住んでいる。日本語はぺらぺらだったので問題はなさそうだったが、近所なだけによく顔を合わせるのだ。朝、歩がサッカーの朝練に行く時とか、回覧板のやり取りとか、気さくで子ども好きな彼とはよく話もした。
(だめだ。絶対バレちゃうよ)
歩は頭を抱えた。


その頃。しおりも姫乃から彼の身に起きた悲劇を聞かされ、呆然としていた。
「今日、担任の先生に呼ばれて……。小説書いてるのかって……。それだけでも問題なのに、その内容が破廉恥だって……。ああ、もうおしまいだ! もしかしたら僕、退学になっちゃうかも……。ああ、そんな事になったら、お母さんも泣いちゃうかもしれないし……。どうしよう。僕のせいだ。みんな、僕の……。世界は、おしまいだぁ」

「お兄ちゃん、大丈夫だよ。何があろうと、しおりはお兄ちゃんの味方だからね。絶対守ってあげるから……。約束するよ。見捨てたりしないから!」
「ほんとに? ねえ、ほんとに、こんな僕でも好きでいてくれる?」
「もちろんだよ。きっと何か切り抜ける方法があるよ。だから、泣かないで。いっしょに考えてみようよ。ね?」
「しおりちゃーん!」
窓越しに抱きついて、姫乃はわんわん泣いた。

「鳴かないで、お兄ちゃんは全然悪くなんかないんだもん。本の内容だってすっごいステキだったよ」
「うん。僕としても純粋な愛のあり方について考え抜いたつもりなんだ。けど、みんながエッチな本だってからかうから……」
「それはみんなが勝手に言うんでしょう? でも、お兄ちゃんは堂々としていればいいのよ。ね?」
「ありがとう、しおりちゃん。僕、うれしいよ」
涙を流しながら笑う姫乃が愛しくて、しおりは思わず強く抱き締めたくなるのを、ぐっと押さえた。感情のままに抱き締めたら、姫乃の骨が折れてしまうんじゃないかと心配だったからだ。

(今はまだ我慢よ。そのうちきっと力の制御を覚えて、まな板は無傷のまま、カボチャだけが切れるようにするんだから……。そしたら、華奢なお兄ちゃんだってぎゅっとしてあげられる。それに、お弁当だって作れるようになるんだから……。うん。しおり頑張るからね)
その日も二人は満点屋のおまんじゅうを仲良く半分コして食べた。夜風が気持ち良く、窓辺に吊るされた笹の葉が揺れている。七夕は終わってしまったが、まだ片付けていなかったのだ。ふと見ると短冊がひらひらと揺れている。それを見て、しおりは閃いた。
(そうだ。署名だ)
たくさんの人の賛同が集められれば学校も考え直してくれるかもしれない。そう思うとしおりはすぐに行動を始めた。
「善は急げ、よ。待っててね、お兄ちゃん」
しおりは急いで何も書いていない紙に線を引き、署名のための用紙を作り始めた。


間もなく夕飯になったので、みんなでわいわいと食卓を囲んだ。子ども達が楽しみにしている「宇宙義賊ホワイトローズ」のアニメが終わる頃、母がデザートを持って来た。子どもたちはテレビが大好きだ。続いてクイズバラエティが始まった。
「あ、今日はアニマルふしぎランド見ようよ」
歩が言った。今回はYUMIがクイズの出題者として出るからだ。が、しおりが反対した。
「やーよ。今日のゲスト、声優の春那くんなんだもん」
しおりは彼のファンだった。
「春那くんってやっぱ声がいいじゃん。それにどことなく姫乃お兄ちゃんに似てるしさ」
「えーっ? 春那はホワイトローズのキャプテン役やっててかっこいいけど、姫乃なんて弱虫ですぐ泣くじゃんか。ぜんぜん似てないよ」
「黙りなさいよ! 姫乃お兄ちゃんだってカッコいい時だってあるんだから!」
しおりがムキになる。
「ふーんだ。信じられないね。おれ、泣いてる時しか見た事ないもん」
「何ですって?」
しおりが拳を振り上げる。

「ほらほら、始まっちゃうぞ。静かにしなさい」
お父さんが言った。
「あ、やべ! ちょっとリモコン貸してよ」
歩が取ろうとするのを父が止める。
「いいじゃないか。たまにはお姉ちゃんにも花を持たせてやりなさい」
「でもさあ」
歩はじりじりした。
「ふふん、だ。お父さんはわたしの味方だもんね」
「ずるいよ。おれだってアニマル見たいのに……」
画面にはYUMIの姿がアップになっていた。

「お、いいねえ。YUMIちゃんか。可愛い子だよな。うちのしおりとは違ってしとやかだし……」
父がにっこり笑って言う。
「ちょっと、お父さんそれ、どういう意味よ!」
聞き捨てならないとばかりにしおりが文句を言う。
「あのさあ……」
歩も何か言い掛けたが、家のチャイムがそれをさえぎった。母が玄関に出て行った。

「歩、さくらさんが、ちょっとお願いがあるから来てくれないかって」
母が呼ぶ。
「はーい。今、行くよ」
歩は後ろ髪を引かれる思いで玄関に向かった。背中ではまだ父と娘のやり取りが聞こえていたが、どうやら父はYUMIの正体が歩だと気がついていないらしい。それに、しおりも何も言っていない。
(人ってあんがいほんとの事なんて見ていないのかもしれないな)


「歩くん、ごめんね。急なんだけど、今日からピアノのレッスンに行って欲しいの」
さくらに頼まれるととても断れない。歩は急いで着替えを済ませるとハンスの家に出掛けた。
レッスンは秘密を守るために地下室で行われた。
「じゃあ、2週間で『メヌエット』を弾けるようにしましょう」
ハンスがやさしく微笑んだ。ピアノは美しく光っていた。花やきれいな絵も飾られている。
(何かすげえ。おれの家とはぜんぜん違う。さくらお姉ちゃんちも広いけど、ここは何か芸術のにおいがする)
呆然としている歩にハンスが告げた。
「じゃあ、毎日練習しましょう。そうですね。一日30回はやってください。そうしたら、必ず弾けるようになります」
「3、30回?」
思わずそう聞き返した歩にハンスはにっこり笑って言った。
「君、毎日サッカーの練習してるでしょう? あれと同じようにやればいいんですよ。筋肉は裏切りませんから……」
「あ、はい」
そう返事してからはっとした。
(やっぱ、バレてるじゃん)

それから、歩にとってはピアノの猛特訓が始まった。子ども部屋の窓からさくらがこっそり渡してくれたキーボードを使って秘密の練習を開始する。歩は夜、ヘッドホンを付けて毎晩遅くまでがんばった。
(くそっ。どうしてもここの指くぐしで引っ掛かっちゃう。片手でなら出来るのにな)
歩は悔しくて何度も練習した。すると最初の一週間で何とか前半が弾けるようになった。
(おれ、ピアノ本気で習ってみようかな? そしたら、プロフィールにうそ書いたなんて気にしなくてよくなるし……。曲が弾けるとすごくうれしい)


しおりが取り組んでいる署名の方も順調に集まっていた。
「見て! お兄ちゃん。こんなに集まったんだよ」
しおりは署名の束を得意そうに見せた。
「わあ! すごい! 1番は白神先生だ。うれしいな。さすが国語の先生。僕の作品の事、ちゃんと理解してくれてるんだ」
姫乃は感激して涙を流した。
「うん。白神の奥さんがね、そういう事ならぜひ協力したいって……。たくさん集めてくれたんだよ。普段はあつかましくていやなおばさんだけど、こういう時、味方につけると頼もしいよね」
「それにこの人、確か有住財閥の……。学校に多額の寄付をしてくれている人のお嬢さんだ」
有住彩香という名前を見つけて姫乃が驚く。
「ああ。彼女、ハンスのお弟子さんだよね。やっぱすごいんだな。ハンスも美樹さんも顔が広いんだよ。今度春那くんにも聞いてみてくれるって……。それに外国の人にもサインしてもらったの。英語のサインなんてかっこいいでしょ? まだ、他にも知り合いがいるから声掛けてくれるって……。この分なら100人くらいあっと言う間に集まりそう」

「みんな、僕のために……。こんな僕のために……ありがとう! しおりちゃん」
姫乃に言われて、しおりは本当にうれしかった。
(よし! がんばるぞぉ! いっぱい集めて、もっとお兄ちゃんを喜ばせてあげるんだ。そして、絶対に退学になんかさせないからね!)


そして、しおりの執念とがんばりが実を結び、姫乃はついに退学を免れた。長い職員会議の末、姫乃は今後も宮坂学院高校の生徒として学ぶ事が許された。しかも、学校を有名にしてくれたという功績と、将来が嘱望される作家としての才能が評価され、授業料全額免除という特待生扱いにするという事が決定した。
そんなうれしい報告を友人のみんなが祝福してくれた。
「お兄ちゃん、本当によかったね」
しおりは胸を撫で下ろした。
「ありがとう。何もかもしおりちゃんのおかげだよ。そして、協力してくださった皆さんのおかげです。心から感謝します」
集まって来た人々に姫乃がそうあいさつすると、一斉に拍手が巻き起こった。
(姫乃お兄ちゃん、本当にうれしそう。ああ、生きててよかった)
しおりは、失敗してまたダメにしたまな板を片付けながら、幸せムードに酔いしれていた。
(明日こそ、わたしが作ったカボチャの煮物、お弁当に入れてあげるからね)